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立川風俗ブログ Vol.【517】

立川の風俗とその歴史に迫る


2019.04.19 03:00

立川の風俗とその歴史に迫る

立川で風俗をお探しの紳士様へ
今回は私達紳士の嗜みの主要ご案内エリア立川
立川が歩んだ歴史と性分化について
すこし掘り下げて考えてみようと思います

立川 そのルーツとは

立川という地名のルーツから振り返りますと
諸説ありますが、、、
・立川氏が治めていたから
・多摩川の流れに因んで「たてのかわ」が変遷して
明治に入ってもともと柴崎村だった地名が
現在の立川村に変わってから、立川の歴史は
急速に発展を辿ることになります。

立川創成期 軍事都市として発展をはじめる

大正時代に入り、世界は駆け足で進歩します
第一次世界大戦が終わり、多くのテクノロジーが軍事使用され
その中でも産業の分野で大きな役割を担ったのが飛行機でした
そもそも戦場において飛行機は専ら偵察撮影のみに使用していました
またパイロットの多くが貴族の次男等が多く
現代でいう意識高い系の人達がほとんどで
敵側の飛行機とすれ違っても手を振る位だったと伝えられています
そんななかで不毛な塹壕戦を切り開いたのは
航空機から爆弾を投下するという古典的ですが
当時は誰も思いつかなかった方法と重戦車の実戦配備でした
立川に飛行基地ができたことも相まって、
軍事方面から立川は発展を遂げていきます

人が集まるところ 発展の兆し

大きな工場ができたこともあり、
立川には多くの人が集まるようになりました
最初にできたのは、飲食店でしょう
そこから夜の歓楽街が少しづつ形成されてゆきます
1930年頃には芸者さんの置屋が30軒程あったと伝わります
その後1940年代に入ると徐々に飲食店が減り
1944年には錦町一帯が「錦町楽天地」と呼ばれる赤線地帯になりました

戦後 日本の変遷期に立川も変わり始める

1945年9月 立川にも米軍が進駐し
立川飛行場が接収されて米軍基地となりました
間もなく「立川パラダイス」という進駐軍向けの慰安所ができたり
錦町の周辺では街娼が立つなど、現代では考えられないような
混沌とした状況が立川にはありました
また日本人を蔑視する外国人も多く
そういった女性達の労働環境は劣悪なものだったと言います

それでも増え続ける赤線業者達

女性達にとっては劣悪な環境であったでしょう
しかし、その後も立川の赤線地帯は発展を続けます
軍関係の取引で好景気な点が大いに注目を集め
現在の墨田区や、果ては横須賀周辺でお客をとっていた
赤線業者や街娼達が立川に集まり
最盛期には千人規模の女性達が働く一大風俗街になっていました

売春防止法の施工 その後

1957年 売春防止法の施工に伴い
1958年には立川から赤線地帯が消滅しました
そして、平成も終わる今、私達は立川を主な派遣エリアとして
この街でお仕事をさせて頂いております。
何か感慨深いものがありますが、この立川から
新しい風俗を築き上げていこうと考えております
紳士の嗜みで御座いますので
こういった歴史についても真摯に思いを馳せます

新しい歴史の1ページを立川から切り拓く

立川の風俗について簡単に記しました、如何でしたでしょうか?
私が何より皆様に伝えたいメッセージは
「立川の風俗を変える」それはつまり
日本に伝わる風俗という歴史の新しい1ページを
私達紳士の嗜みが切り拓いていくという大いなる意思です
それも私達を支持頂ける紳士様のお力あってこそだと考えております
そんな紳士様達にご支持いただけるよう
これからも、改めて前に進んでいくことをお約束します

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